2009年11月26日

郡上八幡・2 壮絶・郡上一揆!!

9月に郡上八幡に行って来ました。約2年ぶりになると思います。前回に郡上一揆ゆかりの地を訪ねましたが、時間の都合上、周り切れずに訪ね損ねた白山文化博物館が今回のメインです。

この博物館には郡上一揆での農民らの結束を誓い合って連名した今から250年も前の当時の傘(からかさ)連判状が現存保存されています。それを是非、この目で見たいと思っての今回の再訪です。

江戸幕府をゆるがした郡上の百姓
ー江戸時代の宝暦年間 (1751~ 62) 郡上農民の総力を結集した郡上藩宝暦騒動は現在の 岐阜県郡上市白鳥町の農民を中心にひきおこされました。この騒動の結果、老中はじめ 幕府指導者数人が免職、郡上藩主はとりつぶしとなりました。このような例はほかにはなく、 宝暦騒動は、3200件といわれる江戸時代の農民一揆のなかでも、代表的な一揆とされています。
郡上一揆より参照引用


郡上八幡は郡上おどりが有名ですが、その踊りのなかの「ヤッチク」という踊りの歌詞は郡上一揆を伝え残す悲しい唄と言われてます。


これは過ぎにし其の物語り 
 
聞くも哀れな義民の話

時は宝暦五年の春よ

所は濃州郡上の藩に 
   
領地三万八千石の

其名金森出雲の守は

時の幕府のお奏者役で    

派手な勤めに其の身を忘れ 
  
すべて政治は家老に任せ

今日も明日もと栄華に耽る  

金が敵か浮世の習い

お国家老の粥川仁兵衛     

お江戸家老と心を合せ

茲に悪事の企ていたす

哀れなるかな民百姓は

あれもかれもと課税が殖える

分けて年貢の取立こそは

いやが上にも厳しい詮議

下の難儀は一方ならず

かかる難儀に甚助殿は

上の噂をしたとの科で

直ぐに捕らわれ水牢の責め苦    

責めた揚句が穀見ヶ原で

哀れなるかな仕置ときまる

かくして苦しむ百姓衆を

見るに見兼ねて名主の者が

名をば連ねて願い出すれど

叶うどころか詮議は荒く

火責め水責め算盤責めに     
















悶え苦しむ七十と余人      

うえ死する者日に増すばかり

も早堪忍これ迄なりと

誰が出したかよ回状が廻る  

廻る回状が何よと問えば

北濃一なるアノ那留ヶ野に

心ある衆は皆集まれと

事の次第が記して御座る

時が来たかよ三千余人       

莚旗やら竹槍さげて

百姓ばかりが雲霞の如く    

既にお城へ寄せんず時に

マッタマッタと人押し分けて   

中に立ったのは明方村の

気良じゃ名主の総代勤め

人に知られた善右衛門殿で

江戸に下りて将軍様に

直訴籠訴を致さんものと

皆に計れば大勢の衆が

われもわれもと心は一つ

わけて気強い三十と余人

道の難所と日数を重ね。    
















やがて着いたが品川表

されど哀れや御用の縄は

疲れ果てたる其の人々を

一人残らず獄舎に繋ぐ

一人残らず獄舎に繋ぐ♪

この白山文化博物館は道の駅白鳥の隣にあります。白山信仰の歴史と文化等の展示ブース、郡上一揆の展示ブース他等見応えがあります。

映画「郡上一揆」で使われた小道具が展示されています。この映画は見応えがありますよ!

ロケに使われた獄門の首には驚きます。右から前谷村・定次郎(緒方直人)歩岐島村・四郎左衛門(林隆三)寒水村・由蔵(岡野進一郎)がリアルです。

これ以上の年貢は生活すら出来なくなると要望しただけなのに死罪とはとんでも無い時代です!

もともと藩の無計画な浪費により藩の財政が圧迫した原因を棚にあげ、民百姓から年貢を取ればいいという発想は現代社会と同じですね!

役人・官僚ばかりが豊かになってしまっている現代社会となんら変わりません。

さすがに死罪という事はありませんが、会社組織でも、会社不正や会社の為に要望や意見提言すれば左遷・リストラに遭うという構図はなんら変わりません。

この構図は人間の持つ保身という体質なんでしょうね~!

事実、民百姓の代表だったこの3人も江戸で打ち首にされ、郡上までの道中塩漬けにされ、市内の穀見刑場にて3日間も見せしめの為にさらされたと事を思うと・・・涙が止まりません。

その挙句、田畑や家は没収され、蝦夷(北海道)に追いやられてしまいました。


























この連判状も北海道に住む定次郎の弟の子孫が代々秘密に保存に努め、なんと昭和になって発見され子孫の好意で寄贈されたとの事。



















2年程前に前谷村の定次郎と那比村の藤吉の墓参りの事を思い出しました。(何故か写真が不明)定次郎邸跡には他人が住んでいましたが、その住人の方が定次郎さんの墓を案内してくれ、帰りに山盛りのミョウガをくれました。またそのミョウガが大きくて美味しくて、この畑で定次郎さんも食べたであろうミョウガと思うと・・・・

那比村の藤吉の墓は地元の方が親切に案内説明してくれました。結局は当時は罪人扱いでお上の目も有り
味方すれば村八分される時代だったとの事で、快く思ってない輩達に真っ二つに割られ、上半分が行方知れずだったものが明治になり川から発見され、傷跡が付いたままの当時のものが建立されています。


定次郎はじめ当時の百姓達の血と汗と何よりも魂の叫びが染み付いている連判状の現物が私達夫婦の目の前にある事が奇跡です。感無量です。250年間も密かに保存してくれた苦労を考えると定次郎さんのご子孫には本当に感謝です。

今後も少しずつ郡上一揆のゆかりの地を訪ねたいと思います。

  


Posted by 醜猫 at 13:39Comments(0)歴史探訪